2024年12月27日に、私たちが切望し、粘り強く活動を続けてきた初めての根本原因に働きかけるALS治療薬が承認されました。今後、SOD1遺伝子変異以外のALSの原因究明につながると思います。患者にとっては大きな希望となります。現在ALS治療薬候補は日本を含めて世界中で多く研究されています。これはかつてない数になっています。ALS治療薬のステージは間違いなく新たな局面に来ています。私が罹患した11年前と比べると隔世の感があります。近い将来、進行を止める薬や更に進めば根治薬も夢ではないと思います。
私のALSとの関わりを含めて、日本ALS協会会長として取り組んでいることをご紹介したいと思います。
宇宙の探求、そしてエンターテインメントビジネスへの転機
実家が田舎で星だけはよく見えたことから、宇宙(そら)は私には身近な存在でした。アインシュタインの相対性理論にも強く惹かれ、宇宙のことを学びたくて京大の物理工学科に進学しました。けれども学部時代は合唱サークルにはまり過ぎ、学生指揮者を務めた3年時は半年間まったく授業に出ずに留年しました。学部で勉強しなかったので大学院で本気で勉強しようと思ったものの、想像と全く違う世界でした。研究は宇宙空間におけるある流体の挙動を調べる数値シミュレーションで、何台ものパソコンで数カ月かけてひたすら計算して結果を解析することの繰り返しでした。苦手な作業だったこともあり、研究職ではなく就職を考え始めた時、当時の彼女(現妻)に誘われてディズニーシーに行ったことで大きな変化を迎えます。開園1周年の頃で、圧巻のパレードの後、全てのお客様が帰路につきながらキャストに「ありがとう」と言う光景を見ました。当時のディズニーの客単価も1万円超で、お金を払った側が満面の笑顔で「ありがとう」と言う、私は奇跡の空間を見た気がしました。そして人相手のサービス業の道に進むことを決意しました。
「大学:指揮者時代」
学部卒に比べて3年遅れているハンディを取り戻すにはベンチャー企業でバリバリ働いて結果を出すしかないと考え、ネクストジャパンを選びました。時間課金型複合アミューズメント施設を運営する、私が入社した年に上場した会社でした。そこで文字通り馬車馬のように働いて5年で取締役に抜擢されました。結局、サービス業の現場にいたのは1年半で、その後はサイバーエージェントのグループ会社との合弁会社に出向したり、全社販促を担当したり、経理責任者になったり本社勤務でした。サービス業を志したのにたどり着いたのは管理部門の取締役。けれども私は最も現場に敬意を払う管理部門を作り上げたつもりです。改めて、こんな自由気ままの人生を許してくれた両親に感謝します。
野球好き、サッカーの仕事に就く
ご縁あってFC岐阜を立て直すことに関わりましたが、実は私はサッカーより野球が好きです。特に星野仙一監督、4番、落合博満の頃の中日ドラゴンズを熱狂的に応援していました。対してサッカーはワールドカップを観る程度で、Jリーグの試合は見たことがありませんでした。だからこそ、既存のサッカー界の通念に縛られず行動できたかもしれません。私は自分のようなサッカーに興味がない人をターゲットに、スタジアムのテーマパーク化に取り組みました。さまざまなイベントを企画し、ついでにサッカーも見てもらう作戦です。当時のFC岐阜にはラモス瑠偉監督や川口能活選手がいました。何かしらスタジアムに来場するインセンティブがあれば、誰もがスーパースターを生で見たいと思うはずです。私の狙いは的中しました。また当時のFC岐阜は本当にお金がなく、いかにコストをかけずにイベントを開催するか、スタッフ全員で知恵を絞りました。こうしてスタッフも一つにしていきました。
「FC岐阜:キックオフパーティ」
もう一つはとにかくどこへでも自ら出かけることです。私は35歳でFC岐阜社長に就任しました。当時のJリーグ史上最年少社長でした。世間から見れば東京のエリートビジネスキャリアを捨てて岐阜に帰って来た健気な若者でした。岐阜県のような地方都市だと企業にしても行政にしても、トップはほぼ岐阜県出身者です。諸先輩方から見れば私は同郷の若輩者。その若輩者が一生懸命に岐阜県のために駆けずり回っている姿を見たら、協力したくなるのが人情です。私は岐阜県42市町村の全ての首長と会い、スポンサー挨拶や新規開拓もとにかく回れる限りやりました。1億5000万円の赤字を1年で解消出来たのはひたすら地道なスポンサー回りの結果です。こうして観客動員数やスポンサー数、財政面でもそれなりにFC岐阜は立ち直りを見せました。
FC岐阜社長就任直後にALSと診断されて
大学病院で精密検査を受けたのは社長就任1か月後でした。当時はFC岐阜一色で、入院中も病院にスタッフを呼んで打ち合わせをしていました。私も検査内容についてネットで調べていたのでALSの可能性は自覚していました。そして予想どおりALSと診断されたのですが、私は未来のことはほとんど考えませんでした。とりあえず人工呼吸器をつければ生きられる、それで十分でした。生きる選択肢しかありませんでした。それよりも今この瞬間、FC岐阜社長という楽しくて仕方ない仕事をどうやって続けるかしか頭になかったです。そして進行が隠せなくなるまでスタッフにも世間にも公表しないという選択をしました。こうしてそれまで以上に仕事に没頭しました。もしFC岐阜社長でなかったら、もっと絶望していたと思います。
「罹患初期:まだ普通に食べられた頃」
皮肉にも「アイスバケツチャレンジ」を企画することに
私は無神論者ですが、ラモス監督にアイスバケツチャレンジが回ってきた時は、神さまは不可思議なことをなさると思いました。私は広報担当者に単なるパフォーマンスにせず、ALSという病気の残酷さもきちんと伝えるよう指示しました。とはいえ、当時認識していた残酷さは今の何万分の1かもしれません。しかし当時も当事者意識があったことは確かで、この運動の本質的な意義を伝えたいと思っていました。
ALS協会の会長としてかなえたいこと
日本にはALSで人工呼吸器をつけても生きられる制度があります。これは先輩患者の方々が国に訴え続けた成果です。私たちは日本ALS協会の過去の活動の恩恵を受けています。未来の患者家族が少しでも安心して暮らせる世の中にする、これこそが日本ALS協会が継続しないといけないことだと思います。しかし制度が必要な人に行き届いているかと言えば不十分と言わざるを得ないです。
理由は主に3つです。
①患者家族が制度をよく知らない(情報が届かない)
②支援者(行政、ケアマネジャー、医療従事者など)が制度を正しく理解していない
③支援を担うヘルパーさんが圧倒的に不足している
これらの課題を見ると日本ALS協会はもっともっと頑張らないといけないと切に感じます。また課題は大きく、日本ALS協会の力では解決は難しいです。より多くの方にALSを含めて難病等を知ってもらうのが大切です。誰でも発症する可能性があるので、障がいに思いを馳せることも人として必要と思います。
治療薬が誕生したら一刻も早く患者さんに届けるべく、法改正を、厚生労働省をはじめ各所に訴え続けています。日本ALS協会は「超速承認」という造語を作り、コロナワクチン並みのスピード承認を目指しています。ALSも他の進行性難治疾患も時間との戦いです。一日一日、命が削られる思いで過ごしています。治療薬が世界にはあるのに日本では保険で使えない、この状況は患者にとって地獄としか表現出来ません。もちろん薬は効果と安全性を兼ね備えなければいけません。それは大前提です。しかし私たちが待ってしまうと、必ず命を落とす仲間がいるのです。そのバランスを国には分かってほしいです。現にトフェルセンは2023年4月に米国で迅速承認されています。対して日本の承認は2024年12月で1年8か月もの差が生じています。誤解なきように申し上げますが、日本ALS協会の訴えに真摯に耳を傾けてくださる方がほとんどです。必ず国は動いてくれると信じています。治療薬の開発を待ち望みながら、前述したような療養環境を如何に整えるかが日本ALS協会の大きな使命です。
また、元ビジネスパーソンとして、ALSはもちろん、障がい者の就労問題はなんとかしたい課題です。障がいがあっても働く意欲があり、能力もある人が沢山います。近年ではテクノロジーの進化によって能力がますます発揮しやすくなりました。日本は少子高齢化状態です。企業は障がい者を戦力として見るべきです。きっとイノベーションの発想を持っています。
ALS治療薬開発のステージは間違いなく新たな局面を迎えています。今この瞬間も世界中の研究者がALS解明に必死になって取り組んでくれています。医学は進歩していきます。どうか希望を忘れないでください。みなさんは、私たちは1人ではありません。
「最近:企業向け多様性と仕事観の研修」
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【プロフィール】
恩田 聖敬(おんだ さとし)
1978年5月10日生まれ
経歴
昭和53年 岐阜県山県市(旧高富町)に生まれる
平成3年 高富町立桜尾小学校 卒業
平成6年 高富町立高富中学校 卒業
平成9年 岐阜県立岐阜北高等学校 卒業
平成14年 京都大学工学部 物理工学科 卒業
平成16年 京都大学工学研究科 航空宇宙工学専攻 修了
平成16年 ㈱ネクストジャパン 入社
平成21年 ㈱ブレイク 取締役 就任
平成21年 ㈱ネクストジャパンホールディングス 取締役管理部長 就任
平成23年 アドアーズ㈱ 取締役 管理本部長 就任
平成24年 アドアーズ㈱ 常務取締役 就任
平成25年 Jトラスト㈱ 経営戦略部長 就任
平成26年 ㈱岐阜フットボールクラブ 代表取締役社長 就任
平成27年 ㈱岐阜フットボールクラブ 社長 退任
平成28年 ㈱岐阜フットボールクラブ 取締役 退任
平成28年 ㈱まんまる笑店 設立 代表取締役社長 就任
令和元年 一般社団法人日本ALS協会岐阜県支部長就任
令和4年 一般社団法人日本ALS協会会長就任
令和5年 JPA(一般社団法人日本難病・疾病団体協議会)理事就任
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